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鹿子の御影は、蓮如上人6歳のころ、上人の母上が、本願寺を出ていくにあたって、形見として絵師に描かせたものとされています。現在、福井県の東超勝寺に所蔵されています。 蓮如上人は、応永22年(1415)、本願寺第七世存如上人の長男としてお生まれになりました。母上は、蓮如上人が6歳の時、事情があって、本願寺から出ていくことになりました。その時の形見として持っていかれたのが鹿子の御影です。 蓮如上人は、不遇の中で少年時代、青年時代とお過ごしになります。ご結婚なさっても生活はいよいよ苦しく、一杯の粥を水で薄め家族で分けあったり、お子さまのおしめまで洗っていたほどでした。しかし、父・存如上人について教学を学び、勉学に励みました。また存如上人がなさっていた近江・北陸の教化をたすけたり、東国の親鸞聖人の旧跡を歴訪なさいました。 長禄元年(1457)、本願寺住職存如上人の職をお継ぎになると、近江の教化につとめます。しかし、比叡山の延暦寺衆徒の本願寺破却に遭い、大津南別所に移り、文明3年(1471)、越前吉崎に坊舎を建て、『御文』作成や『正信偈』『和讃』の刊行など、独創的な教化を展開します。しかし、門徒の増大により守護との抗争が激化していきます。そういった状況をおさえるため、蓮如上人は、文明7年(1475)、吉崎をあとにします。 その後、蓮如上人は、摂津・河内・和泉に布教し、文明13年(1481)、山科に御影堂・阿弥陀堂を建て、本願寺の再興をはたしたのでした。延徳元年(1489)、隠居しますが、明応5年(1496)、大坂石山に坊舎を建て、山科との間を往復して、晩年も教化の手を休めることはありませんでした。 そして、明応8年(1499)、蓮如上人は、85年のご生涯を閉じるわけですが、今日の本願寺教団の基盤は、まさに蓮如上人の85年のご苦労によって築かれていったのです。 |