ある日の対話 2


水とグラス



 人の悩みと仏教のできることについて話をしたS君ですが、まだまだ納得のできない部分があるようです。



S:悩みを解決する手助けができる、というのはわかった。まあ、本当に理解するには実際に体験してみる必要があるんだろうね。でも、やっぱりそれは難しいよ。宗教ってことで身構えてるのかもしれないけど、いろいろ抵抗感があるから。

光:ちょっと待って。先に言っておくと、僕は僧ではあるが宗教学者じゃないし、宗教全般について語ることはできない。一口に宗教と言ってもいろいろあるから、他の宗教についてはそっちで聞いてくれ。答えられるのは、あくまでも仏教のことだけね。

  んでもって、抵抗感の話に戻ろう。悩みがあるってことで、ひどい言い方をすると、「悩みを持つ=精神的に異常がある」ってイメージを持ってるんちゃう?さっきも言ったけど、悩みのない人間っていないやろ?悩みに異常も正常もないよ。人間はみんな違うんやから、悩みもいろいろ。

S:んー。けど、悩みなんて人に話しづらいよ。

光:確かにそれはよくわかる。自分にとっても、悩みを積極的に人に打ち明けるってことは難しいしね。けど、人に話すことによって、あっさり解決した経験もあるやろ?

S:それでもなぁ。うーん。

光:いやさ、本願寺のサイト作ってるのにはね、いきなり面と向かって話しづらい人は、最初はメールなり掲示板なりから入ってもらえたらって思いもあるんよ。

S:なるほど、あんまり堅苦しく受け取らず、ひとつの選択肢として考えろってことかな。ところで、さっきの抵抗感の話だけど、「悩み」に対するイメージだけじゃなくて、仏教の持つイメージの影響もあると思うんだ。いわゆる儀式的なこととかね。もちろん、それはそれで日本人として好感を持つ部分もあるんだけど、それと個人的な悩みとがあんまり結びつかないんだよね。


光:それってつまり、今の日本の仏教は形骸化してるって言ってるんやろ?そこに、不信感もあり、安心感もあるってのは、多くの人の意見やろうな。実際それは、その通りでもあるね。葬式仏教って言われるように、様式美な世界になってるのは事実。


けど、様式美を否定する気はないし、むしろ、それが必要だと思ってる。儀式と悩みが結びつかないって言ったけど、心の問題と儀式的なものって、分けて考えてるやろ?

儀式をグラス、心の問題を水として例えるとね、今、日本仏教の多くが水の入ってない空のグラスだと。中に何も入ってないから飲むことはできないが、同時に飲めないがゆえに、飲んでお腹をこわすこともない。それでも、水の入ってないグラスじゃ意味がないって、君は言ってるよね。みんなが欲しいのは、水であってグラスじゃない。

しかしね、水だけじゃ飲めないんよ。みんな、水を求めるがゆえにそればかり求めてしまうけど、水を飲むためには、それを入れるグラスがいる。

望むものが欲しければ、それのみを求めてしまって、それ以外が目に入らなくなるけど、そのためには手段とか道具とか、そういったものが必要なんよ。

つまるところ、僕がやらなあかん仕事は、グラスに水を注ぐ作業やな。